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歪合住宅
歪形
デフォルマシォン
【仏語】 -déformation

集合住宅

マンション
【英 語】-mansion


せいごうじゅうたく
歪合住宅
デフォルマンション
【造語】 -déformansion

déformansion
過剰/過少という意味での 〈強調〉という概念は、自然界では広く普遍的なルールでした。
もしも、自然界の一部である人間が、 おなじく〈強調〉がもたらす 〈歪〉の原理を受け入れるとき、
そこには、どのような人間の 〈生活行為〉が、あるいは、建築の 〈かたち〉があり得るのでしょうか。

「あらゆる 〈余剰〉が関係をつなぐ。
自然は、余剰の授受によって相補的に繋がる。」
(今西錦二)
“歪合住宅”-デフォルマンションとは、生活行為をひとつの「型」としてとらえ、その行為を強調することで発生した、「歪」な部屋の集まりです。ゆえに、その外観/中身はとても奇妙です。では、それらの〈強調(余剰)〉は、どのように繋がり合い成立しているのでしょうか。

















それぞれの「擬儀式」が、連鎖反応的に繋がります。それは、円環的な行為のリレーでもあります。それぞれの行為は「現象」となり、壁や階高を超えて「空気の隣人」へと伝搬されます。たとえば、「入浴家」がお風呂に入ると、、、そのまえに「○○家」とは何かを説明しなければいけません。「○○家」というのは、ヒトでもありイエでもあります。たとえば、「茶道」や「華道」などの一般的な「道」がつくような自己鍛錬の芸術領域では、「書道家」というと、そのヒト自身をさす意になります。このように生活行為を、ひとつの「型」としてとらえ、それを実践するヒト/空間を統合して「○○家」とよびます。さて、そんな「入浴家」が入浴するとき、その行為/事実は「熱」、「風」へと変換され、「カーテン家」のカーテンをゆらし、「植物家」の室内に風を導きます。つまり、「入浴家」と空気でつながる11人の「○○家」たちは、彼あるいは彼女の「年齢、職業、性別、国籍」、あらゆる来歴を知りませんが、「入浴家」がただ入浴を愛していて、その「入浴家」が、いままさに入浴しているという事実を、ただ音や光といった熱環境によって感じるのみなのです。それに感化されて、また別の「○○家」が、、と個性豊かな「歪」たちが、「歪」であるからこそ「共動」する、という共同体ができあがります。
これはまさに、個性的な「歪」が好き好きに、泰然自若としている「自然界」の似姿といえるのではないでしょうか。

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